高校を卒業した翌年、1983年夏。高校時代の同級生、林山人(ドラム)と近所の高校に通っていた友達、本間正一(ピアノ)とさかなを結成した。作りためていた曲をスタジオで彼等に聴かせて「どうかな?」気心の知れた友達だったので何も云わずに演奏が始まった。曲は基本的に歌入りを想定して作っていたのだけれど積極的に歌おうとする人がいないので、インストで演奏出来るように三人で工夫する。ギターで曲を作っていたので、ギターはテーマとなるフレーズをきめて、延々とそれを繰り返すへたくそなシーケンサーのようだった。
それに合わせてピアノがベースラインとテンションコードをあてていく。唯一まともな演奏力を持っていた本間は今にして思えば随分複雑なテンションコードをつかっていたな。山人はドラムがリズムを刻む役割なのを嫌がっていて、もっと自由にメロディのようにドラムが叩きたいとかなんとかいっていた。僕はなんとなくそれが素敵な事の様に思えたので、「うん、いいじゃん、そうしなよ。」五曲くらい出来たところでライヴやりたいね。って事で練習をカセットテープに録音して都内のライヴハウスにもっていく。

始めてライヴをブッキングしてくれたのは、当時目黒にあったキャットシティというライヴハウス。「じゃあ最初はノルマ20枚ね。」いざライヴが決まってみるとやっぱり歌がないのがまずい気がしてくる。ある日山人に「ちょっと詩を書いてみたんだけど、これ歌ってみない?」「あぁ、俺もちょうど詩を書いててさ。じゃあお互いの詩を一緒にうたえばいいじゃん。」とはいっても歌なんてもんじゃなかったな。しゃべってるような時々思い付いたメロディを歌ったり。で、初ライヴ。ノルマも真面目にこなし、お客さんも一応いた。ライヴハウスの人はなぜかおもしろがってくれてその後も月一でブッキングしてくれるようになった。キャットシティの月一ライヴは一年くらい続けたのかな。最初は真面目にこなしてたノルマもだんだん出来なくなってあるときはお客さんふたりっていうのもあった。でもなにしろ作った曲を演奏するのが面白くて、一生懸命やっていた。山人とは本当に仲良しでバイトに行ってるとき以外はたいてい一緒にいた。バカみたいにいつまでも絵や最近読んだ本のはなしをしてどんなふうに曲をつくっていくか話し合っていた。やれている事はたいした事ないとはいえ、話し合った事の密度だけは濃かったな。そんなふうにしてるうちに繰り返し見に来てくれるお客さんが出来はじめた。そんななかにはライヴの企画をしているものだけど良かったら今度出ませんか。と云ってくれる人もいたりして。で、キャットシティ以外のお店にも出る様になる。そんなあるとき本間が辞めてしまった。当時本間はスタジオミュージシャン育成の専門学校に通っていて早く音楽で仕事出来るようになりたいから。と云っていた。

山人はドラムセットをやめてパーカッションに。僕はギターをアコースティックにもちかえてふたりともそれまで以上にたくさん歌う(しゃべる)ようになりますますアホみたいだった。そんなあるとき山人が「俺実家帰るよ。なんか疲れちゃってさ。」「ええ。なんで。もっとやろうよ。いっぱい曲も作るからさ」でも山人がこう言い出したらどうしようもない。実家帰っちゃった。淋しかったな。毎日コンビニでバイトして帰ってくると曲ばかり作っていた。一日一曲。いっぱいたまったから、また一年ぐらいしたら山人と出来るとおもって。一緒に遊ぶ相手がいなくなったので暇なもんだから絵をたくさん描き始める。毎日たくさん。描けばだれかに見せたくなるもんだから公募展などに片っ端から応募する。毎月どっかに送っていた。そんなある日友人の中村きよし君から電話。「よう、今度の日曜日ひま?いま俺が手伝ってるバンドでギター探してるんだけど来てくんない?」「どんなバンドなの」「まぁパンクなんだけど。」「じゃあ恐いんじゃない?」「平気だよ。なんもしやしねぇから。ちゃんと来いよ。じゃあな。」やだな。どうしよう。中村くんは僕が19歳くらいの時大好きでよく見にいっていたコックサッカーズというバンドでドラムを叩いていた人。このバンドにはジョージというギタリストがいてこの人のギターが大好きだった。曲も良かったけどこの人が作っていたな。何度か見に行くうちにこの二人と友達になった。ふたりとも絵が好きだったからよく本屋に行って高価な画集を何時間も立ち読みしたっけ。ハンスベルメールを教えてくれたのはジョージだった。「なんかこういうのってスゲェじゃん。」

でもって、日曜日。やだけど行かないのも恐いので高円寺のスタジオヘ。中村くんがメンバーを紹介してくれる。「ギターのりょう、ベースの美沙緒ちゃん、ボーカルのノン、ゴットってバンドだから。」「、、、よろしくおねがいします。」「で、こいつ西脇、まぁギターへたくそなんだけどさ。こいつしかいなくてよぉ、今日ひまなの。」「OK、OK、俺達フィーリングが合えばイイからさ。」「、、、。」なんで来ちゃったのかな。でも帰るわけにもいかずセッション。なんだかよくわからなかった。「西脇くんとちょっと話したいしさ。駅前の焼き鳥屋でミーティングしようよ。」とリーダーのりょう。「いや、僕ちょっとこれから用事が、」「なに、西脇くん、急いどるの?」とノン。「ウソ、ウソ。こいつビビってるだけだから。」と中村くん。なんで来ちゃったのかな。焼き鳥屋で席につくといきなりりょうとノンが風邪薬のビンをとりだして手のひらにザラっとのせるとコンペイ糖みたいにボリボリ食べだした。「西脇くんは今日俺達とやってみてどうだった?」「え、っと、僕あんまりギター弾けないし、パンクとかやった事ないし、出来ません。」「ええ?でもロック好きでしょ。」「、、うん。」「じゃあOKだよ。俺達、今日楽しかったしさ。」「いや、でも僕、家で静かにしてるのが好きだし。」「あっ。もしかしてさぁ、俺達のことすげぇワイルドな人たちとか思ってるんじゃないの?そんな事ないよぉ。俺達すごい繊細だからさ。」「うん、。」「まぁとりあえず、いま俺達アルバムのレコーディングしとってさ。それに参加してほしいんだけど。」「後の事はまた考えればいいがや。」レコーディングがすんだらレコ発があるからって事でそれもやる事になってしまった。でも本当に出来そうもないと思っていた。たまたまタイミングが悪かったのだろうが、ゴットの練習の日に限って風邪をひいたり胃がいたくなったりしていた。「俺今度のバイト代はいったら西脇くんに養命酒買ったるわ。」とノン。買ってくれなかったけど。で、レコ発。これは辛かった。なんと当日起きてみたらひどい風邪をひいていて出かけようした時は熱が9度くらいある。行かないわけにもいかず、新宿ロフトへ。リハーサルなんてなにも憶えていない。早く帰りたくてしかたがないので、思いきってりょうに云ってみた。「もう帰っちゃだめかな。」「辛いのは分かるけどさ。せっかくいままで練習してきたんだし、なんとか本番までがんばってよ。」そりゃそうだ。「西脇くんもさ、ベリコデ(彼等が呑んでいる風邪薬の名前)飲みゃあいいがや。俺なんかもう何年も風邪なんかひかんよ。」「そりゃそうでしょうね。でも僕は風邪ひけた方がいいから。」「ふーん、かわっとるね。」で、本番。全然わけが分からなかった。ものすごいデカイ音。目の前で皮ジャンに坊主頭のいかついにいちゃんがこれでもかっていうくらい暴れている。ノンとりょうは絶好調。なんでこんなことやってんのかな。終了した10分後には小田急線に乗っていた。そんなわけで僕はその後四年間弱ゴットを続ける。中村くんは一年半後に辞めてしまった。かわりにオリジナルメンバーだった中村達也くんが復帰してそれと入れ代わりにノンも辞めてしまった。かわりにりょうが歌うようになった。ゴットを続けたのは別に彼等が恐かったからでも、ノンが養命酒を買ってくれると云ったからでもない。ただゴットが好きだったから。彼等の歌にはなぜか心を動かされたしりょうの作る曲はシンプルで力強いメロディとリフで出来ていて、りょうの弾くギターは僕など一生かかっても追い付けないほどのドライブ感に溢れていた。でも四年目のある時もういいかな。と思って辞めた。

*

1987年のはじめ頃、ゴットのライヴが渋谷の屋根裏であった。対バンはギャザースというバンド。とても素敵なバンド。いいメロディの歌がのっていて、演奏はタイトで上手かった。で、このギャザースを見に来ていた女の人となんとなく知り合う。冨田綾子さん。

「ギャザース良かったね。」「うん。でもゴットも良かったよ。」「へへへ。ほんと?」「うん。実は私もバンドやってるんだ。」「なんて云うバンド?」「ゴーバンズ。」「パートは?」「ギター。」「ライヴとかやってんの?」「うん。今度は横浜のセヴンスアベニュー。」「ふーん。じゃ見に行こうかな。」で関内セヴンスアベニュー。ゴーバンズ登場。なんかチャカチャカしたスカっぽい音。ボーカルの女の人はキャッチーなメロディをキュウキュウ云う感じで歌う。なんかファンシー。うーん、、、。そこへいきなりバカでかい音のギターソロが。それまで握っていた所からぞんざいに弾きはじめたようなそれは実は家で念入りに考えて来た事を小節の隅々まで行き渡るフレージングで物語っている。でもその計画はおそらく半分も実現されていないのもみてとれる。最高だ。僕がいままで弾きたいと願っていてもかなわなかったものが目の前で実演されていた。その瞬間から今に至るまで彼女は僕のギターの師匠だ。でも教える才能が無いのか、僕がアホなのか僕のギターは相変わらずのままだけど。と云うわけで終了後楽屋へ行き、「やぁ、ちょっと話したいんだけど。」「うん。でもすぐに出られないから。」「じゃあ駅前に*って云う喫茶店があるからそこにいるよ。」喫茶店。「やぁ、お疲れさま。」「ありがとう。来てくれて。」「いやこちらこそ素晴らしいギターを聴かせてもらってありがとう。あのファズを使ってギターソロ弾いたのはなんて曲?」「エレキ天国。」「最高にかっこ良かったよ。」「えーっ。本当?でもね、せっかく家で考えてきたのにちゃんと弾けなかったんだ。」やっぱり。「でも良かったよ。僕はいままでずっとあんな風にギターが弾きたいと思っていたんだよ。でさ、僕、ゴットの他に自分で曲を作ってさかなっていうのをやってるんだけど、それで一緒に音楽作ろうよ。」「どんな感じなの?」「うー。うまく説明出来ないから今度、ライヴのテープかすよ。」「うん。他にだれかいるの?」「うん。山人っていうドラムがいるんだけど、今実家に帰っちゃってて、さかなは活動休止なんだ。でもそろそろまた出来るんじゃないかな、と思っていて。」「ふーん。じゃあそれ聴いてから考えるね。」で、テープを渡す。「ねぇ、どうだった?」「なんか内気っぽいね。」「、、、。」「あっ。でも好きだよ。わたしも内気だし。」「、、、。一緒にやれそうかな。」「うん。私も実は曲作ってるんだ。」「いいじゃん、今度聴かしてよ。」「それと本当は歌も歌いたいんだ。」「いいじゃん。ばっちりだよ、本当は僕もちゃんとした歌が入るつもりで曲を作っていたんだ。」

と云うわけで、バイトが終わると毎日の様に一緒に曲を作るようになる。自分が今まで聴いて来た音楽で好きなものを次々に紹介し始める。ブリジットフォンテーヌ、ロバートワイアット、エリックサティ、モンク、南米の素朴な民族音楽、キンテートビオラートなど。なかでも彼女が気に入ったのはキンテートビオラート。さすが。このレコードは高校生の頃、山人から借りてそのままになっていたものだ。NHKの教育テレビにでも使われそうな素朴で寂し気な民謡で、ジャケットはただの風景写真だし演奏者の写真はみんな学校の先生みたい。彼女がこのレコードから受けた影響は相当だったみたいで、後のボンジュールムッシュサムディにおさめられた盲目のストッキングバードという曲に強く表れている。これはすごい曲だ。大好きな曲。「君の好きな曲も色々聴かせてよ。」「うん。じゃあティラノザウルスレックス。」「ストレンジオーケストラと云う曲。」「すごい曲だね。いいなぁ。いつかこんな曲出来たらいいね。」「うん。あと私もロバートワイアットに好きな曲があるんだけど、タイトルがわからない。たまたまラジオでかかったのを聴いてすぐカセットに録ったんだけど。」「今度テープかしてね。」借りたテープの曲はとても良い曲だった。僕の持っていたアルバムには入っていない曲だった。後で分かったタイトルはシップビルディング。そんな調子で好きな本の話や絵の話やどうやって音楽を作っていくかなどたくさん話した。山人んときと同じだな。彼女が好きな画家はセザンヌ、シャガール、ルドンだった。僕も好きだったけどルドンはいまいち知らない。「じゃあ今度画集みせてあげるね。」画集。変な絵だ。ただ人の顔がふわふわした色彩で描かれているだけのポートレイト。なのにぞっとするような恐さがある。目玉が宙に浮いていたり、人の顔が宙に浮いていたりするあからさまに変な絵はそうでもないのだけれどこのポートレートは恐い。「これすごいね?」「恐いでしょ。」「ちっとも恐い顔してない。っていうかとても静かな穏やかな顔なのに。」「この人死んでるみたいじゃない?」「そうだ。」死んだひとを描いた絵だってこんなに恐くはならないだろう。この絵を見ていると、死んだ人を見ているような気になるのだ。このあまりの静けさに。「でも本当に好きなの?」「うーん。なんか気になっちゃうんだよね。でも恐いから画集捨てちゃおうかな。」と云って捨ててしまった。

そうこうしているうちに曲もだいぶたまってきたのでスタジオに入る事にした。山人に連絡をとりとにかくいっぺん来てくれと。あとそのころ知り合いの紹介で出会った松井亜由美さんというヴァイオリニストに来て欲しいと頼んだ。松井さんはいろいろ活躍している人だったけど僕が知っているのはカトラトラーナというバンドで演奏しているところ。で、高円寺のスタジオでセッション。作って来た曲を冨田さんと二人で片っ端から聴かせる。久しぶりにあった山人は相変わらずで、なにも説明してないのに当たり前のように悠然と演奏しはじめる。松井さんもへんてこなヴァイオリンをキュウキュウ弾いていた。「しばらくこの四人で活動してみたいんだけどどうかな?」松井さんは快く承諾してくれた。「俺はいつまで出来るか分かんないけど、、、」「うん。とりあえずやって。」ライヴやろうってんで、ゴットをやっていた僕はりょうに相談してみる。「さかなでライヴやりたいんだけどブッキングしてくれるひといないかな?」「ゴットのブッキングしてくれてる中島くんってのがいるからこんど紹介するよ。あと今度のゴットのライヴで前座やれば。」「うん。」ありがとう、りょう。ゴットの前座ライヴを三回くらいやったとおもう。

そのうちのひとつで、名古屋でレコード屋をやっていると云う加藤という人と出会う。「こんどうちでレーベル始めようとおもってるんだけど君達うちでLP作らないか?」「ええ?本当?やりたいよ。」「じゃあ、俺来月また東京来るから、そんときレコーディングしよう。どっか安いスタジオ知ってる?」「前僕らが練習してた池袋のスタジオなら割と安いんじゃないかな。」「じゃあ今度俺がこっち来る日取り連絡するから、それに合わせてそこ押さえといてよ。」ってなわけで翌月レコーディング。メンバー四人と加藤がそろったところでスタジオのオーナーがひとこと。「今回は四日間の予定だから全部で二十五万ね。前金で半分、終わったら半分がうちのシステムなんだけど。」「あっ、そうなんですか。今日は用意してきてないんで明日必ず持って来ます。」と加藤。「分かりました。」レコーディングスタート。そして二日目、時間になっても加藤があらわれない。オーナーは「時間もったいないから始めようか。」と云ってくれて。結局その日終了間際に加藤から電話が入り「ちょっと用事が長引いちゃって行けそうもないんですけど、明日必ず持って行きますから。」で、三日目、加藤は来ない。「まあしょうがない。始めましょう。」この日は連絡も入らなかった。「君たちのことは以前から知ってるし、信頼してるけれど加藤というひとは全然知らないからね。このまま明日の作業をするわけにはいかないよ。もし彼が明日も来なかった場合、君達がちゃんと清算してくれると約束してくれるんならやるけど。」うー。どうしよう。ここまでやったのにいまさら中止できないよ。でも十万のバイト代で三万のアパートに住んでる僕にお金があるわけない。僕らの中で唯一ちゃんとした会社におつとめの松井さんが「私、十万ならなんとかできるよ。」「ええ。本当?」ありがとう、松井さん。だったら残りは僕丸井で借りるよ。(これは冨田さんと毎月一万ずつ出して返した。)ってなわけで「じゃあ最後までやらせてください。」「分かりました。」もちろん加藤来なかった。レコーディングはほぼ予定通りに進んだけれど、ミックスだけ残ってしまった。「このアルバム、いつどこから出せるか分からないんでしょう?」「うん。」「じゃあテープうちで預かってようか?」「是非お願いします。」借金をつくり、リリースの見込みの無い音源をつくった僕たちはすっかり落胆して帰った。 ゴットのライヴが名古屋のE.L.Lであった。たまたまバイトが休みだった冨田さんも一緒に行った。その日の打ち上げに以前りょうがいたスタークラブというバンドのボーカル、ヒカゲくんとそのお兄さんでスタークラブのマネージャーのミックさんが来ていた。りょうはミックさんにさかなを紹介し、加藤の件を説明して、「なんとかならんかなあ。」「じゃあうち(クラブザスター)でやろうか?売れるかどうか分からんからギャラは出せんけど。」「全然いいです。お願いします。でもミックスがまだ出来てなくて、あと十万くらいかかりそうなんだけど。」「うん。じゃあ十五万出すよ。君達も大変でしょう。」ありがとう、りょう。そしてミックさん。余分に貰ったお金は山人を除く三人で分配した。そもそも山人はこの事に関して我関せずだったので。無事完成。リリースに向けて準備。レコ発のブッキングを中島くんに頼み、ジャケットを作る。中に入れるクレジットや歌詞を載せる紙は冨田さんに作ってもらう。一緒にちょこまか作業。「冨田綾子 VO,G,ってなんかかっこわるくてやだな。なんか芸名考えようかな。」「じゃあポコペンにしたら。」「なんで?」「ポコペンってのはたぬきの絵描き歌だよ。君はたぬきっぽいからね。」「うー。」

で、このアルバム(洗濯女)にPocopen - Vocal.Guitar.とクレジット。いまだにそのままだ。そして1988年、五月に洗濯女リリース。はじめてCD屋さんに流通出来たLP。(実はこれ以前、まだ本間がいた頃、自主制作で八曲入りのLPと四曲入りのカセットを作っていた。LPは百枚、カセットは五十本だったのでさすがにライヴで売り切ったのだけれど果たしてこれをリリースと云って良いのかどうか?)で、レコ発。渋谷ラママ。この日は松井さんのスケジュールが合わなくて三人で演奏。アルバムに入れた曲は一曲も演奏せず、十分くらいの曲を三曲演奏した。一曲目に演奏したのは後のマッチを擦るにいれたお元気?だった。そんな感じで時々松井さんを交えながら、ライヴ活動。アルバムを出したあとから少しずつライヴに誘ってくれる人(バンド)も増えて、一年後には月四回くらいやっていた。曲は相変わらず毎日の様に作っていた。「ボーカルがこの音でしょ。で、ギターのベース音がこれだとこの音は変かね?」「そお、いいんじゃない。」「じゃあこれは?」「ああ、ちょっと変。」「でもなんか怪しくて良くない?」「じゃあ、一回ずつ交互にやったら?」「うん。」「ヴォーカルがそこの音んとき、ギターのこの音となんか変だよ。」「じゃあ、こうしたら、、。」「そっちのほうが全然いいよ。」音楽の理屈が全然わからず、コードネームもあまり知らない僕達はこんな拙い会話をしながら、曲を作っていた。いまもたいして変わっていない。月四回ライヴがあるのにライヴごとに新しい曲を二曲くらいやっていた。一、二回、ライヴでやったらボツになってしまう曲もたくさんあった。歌詞については、曲を提案した人が詩も書く事にしていたので僕も書いていた。でも今にしておもえばこれは良くなかった。やっぱり歌う人がつくらなきゃ。それにポコペンさんが作る詩のほうが断然素晴らしかった。スタジオでの練習は月一回しかしていなかった。週一回だって良かったんだけど、山人は月一の練習さえ一回おきにしか来なかった。週一回にしたって八回に一回しか来なかっただろう。たまにライヴに来ない事もあった。これはこたえたな。二人で傷付いて落ち込んで帰ったっけ。

で、ある時、そのころよく出さしてもらっていた代々木のチョコレートシティの人から、「今度うちではじめるレーベルからCD出さない?」「ええ。是非。」とりあえずソノシート五枚作って、その後その曲に何曲か足してCDアルバムにしましょう。ってことでマッチを擦るのレコーディングがスタート。レコーディングエンジニアはチョコレートシティのライヴPAで時々お世話になっていたエマーソン北村さん。レコーディングも大詰めをむかえてあと二曲。「最後の二曲は全員一発録音にしたい。」と云う事になり、だったらチョコレートシティでDATに直接録ってしまおう。と云う事に。そのために僕が用意していたのは、灯台へという五拍子の曲だった。まず基本となるコード進行にそって二本の裏メロディを考え、それにあらかじめ考えていた歌のメロディをのせてみる。変な曲。二本の裏メロディはギターで弾く感じじゃ無い。ギターのコードバッキングもいらないかんじだ。二本の裏メロディはヴァイオリンにしたい。そうなると、一発録音するにはもうひとりヴァイオリニストが必要だな。エマーソン北村さんに相談。「わかったっす。勝井くんって云う人がいるんで俺の紹介だ。っつって電話してみてくんせぇ。」「もしもし、北村賢治さんから連絡先を教えてもらって電話しました。さかなと云うバンドをやっている西脇といいますが、今度録音する曲でヴァイオリンを弾いてもらえませんか?」「ああ、いいよ。いつ?リハーサルは?」「リハーサルあったほうがいいかな?」「そうだね。」「じゃあ、レコーディングの当日にします。」「、、、。譜面とかあるの?」「無いです。」「だといきなり当日はきついかもよ。」「わかりました。譜面書いてみます。」「うん。」とは云ったものの譜面なんか書けるわけない。とにかく音の高さと長さが分かればいいんだから、、。フラットやシャープのつけ方がわからないのでハ長調以外の音にひとつひとつシャープやフラットをつけていく。へんてこな譜面を持ってレコーディング当日、まずはリハーサルをする池袋のスタジオ(例の)へ。駅前で勝井さんと待ちあわせて一緒に行く。「松井さん、こちら勝井さん。」「どうもどうも」ってな感じでリハーサル。「すごい譜面だね。」「はぁ、分かりませんかねぇ。」「いや分かる事は分かるんだけど、ちょっと分かりにくいっていうか、、。」松井さんと勝井さんがちゃんとした譜面に書き直してくれた。でもって、チョコレートシティでレコーディング。まずはポコペンさんが用意してきたベンチを録る。ポコペンさん以外だれもやる事が決まっていない。ラフなセッション。そして灯台へを数テイク録って終了。「どうもありがとうございました。」こうして勝井祐二さんと出会ったのだった。完成したアルバム、マッチを擦るは1990年の春先にリリース。レコ発はもちろんチョコレートシティ。お客さんもたくさん見に来てくれて、無事終了。

その後も相変わらずのペースでライヴ活動。そんなある日電話が。「あのもしもし、パロッツというバンドやっている鈴木と云うものですが。今度僕達の企画するライヴに出てくれませんか?」「いいよ。いつ?」日にちは忘れてしまったけどたしか新宿のJAMだった。こうしてPOP鈴木くんと出会ったのだった。

その後しばらくしたあるライヴの日。また山人が来なかった。落ち込んだけど、その後のライヴのこともあるので電話をするけど通じない。彼女の方に電話したら「居なくなっちゃった。どこにいるのか分からない。」まいったな。どうしよう。結局このときは山人とは連絡がつかなかった。この頃僕とポコペンさんは早くも次のアルバムの準備にかかっていた。と云うのも実はマッチを擦るの出来がいまいちだと思っていて、もっと良い作品を早く作りたいと思っていた。マッチを擦るでのさかなはまだ山人と僕が二人でやっていたこととポコペンさんがギターを弾いて歌うことをただ足しただけに近かったから。もっと歌を聴けるように曲の作り方を変えていかなくちゃ、、。しかし曲の構造がどうだとか考える知能もなく。

「じゃあ歌以外を物凄く静かにすればいいんだよね?」「うん。じゃあ私単音しか弾かないね。」「うん。僕はアルペジオしかひかないよ。」「でもこれだけだとなんか平べったくないかな?」「じゃあリバーブいっぱいかけたら。」「うん。」などと云いながらレインコオトや樹といった曲を作っていた。「いい感じだから何曲か録音しようか?」「うん。でもお金は?」安いスタジオ一晩なら三万くらいで借りれるので、とりあえず生活費を使い込み一晩で録れるだけの曲を録る事に。そのためになんとしても山人と連絡をとらなくては。直接家に行ってみたら居た。「新しい曲がいい感じで出来てるんで一日だけレコーディングしたいんだけど」「お金は?」「とりあえず自分達で出す」「どんな感じ?」「物凄く静かな感じ「ふーん、いいよ」というわけで、レコーディング。もしこれがいい感じに録れたらチョコレートシティに連絡して続きをやらしてもらってCDにしてもらおうと思っていた。しかし山人はあらわれない。仕方が無いので二人でレコーディング。なんとなく思い描いていた感じのものは録れたのだけれど山人がいなきゃしょうがない。落ち込んだな。もうやだ。とおもった。僕はポコペンさんのようにギターを弾いて歌って、ひとりで音楽を成立させるような能力がない。今ならそんな風に考えるのはずっと一緒に音楽を作ってくれている彼女に失礼なので考えない。でもその時はそう考えてなおさら落ち込んでいた。もちろん彼女も落ち込んでいた。そんなある日。「あのさ、僕しばらくさかな休みたいんだ。」「決まってるライヴはどうするの?」「もし君も休むんなら、僕が電話して事情を説明してあやまるよ。」「私ひとりでやる。」さすがなんだ。かないっこない。でもいじけていた僕はひとりアパートに引きこもって絵ばかり描いていた。ってなわけでこの年の6,7,8月の暑い間、僕はバイトに行くときとポコペンさんに会いに行くとき以外、ほとんどアパートに引きこもっていた。

さかなのライヴはその間に4回あり、そのひとつは大阪だった。そのうちの三つはポコペンさんはひとりでガッチリ演奏した。残りのひとつでは鈴木くんがドラム、友達のジョージがギターをやったらしい。そんな彼女の様子をみて、9月のある日、こんなことじゃいかん。と思う。「ごめんなさい。僕もう一度がんばるから。もうこんな無責任な事はしない。だから一緒にさかなやろう。」「うー。うん。」ってなわけでまた山人の家へ。「もう一回三人でやろうよ。なんかやりたくない理由があるなら云ってくれ。」「べつにやりたくないわけじゃないんだけど。でも時々つかれちゃってさ。いつまでこんなことやってんのかなぁとかおもうと、、。」「そう。でも今度はさ、今までとちょっと違った感じの事をやりたいとおもっててさ。もしそれに興味が湧いたらやってよ。」で、いろいろ水というアルバムについて思い描いていることを話す。山人はそれに興味をもってくれてアンビエントなノイズと極端にシンプルなパーカッションを担当することになる。チョコレートシティに電話。「さかな三人で再開します。これからはちゃんとやります。アルバム作らしてください。」「いつやるっすか?」「今やる気が盛り上がってるんでなるべく早く。」「へぇ、分かったっす。北村さんと相談して決めとくっす。」で9月27日。目黒マッドスタジオにて水のレコーディング開始。(なんで日にちまで憶えているかというと誕生日だったから。でもこの日の事はとてもよく憶えている。行きの電車の中、ウォークマンで聴いていたアルバムも三人が着ていたものも。みんなで食べた弁当も。)このアルバムは3日間で録音した。歌も含め全てを一発録音だったのでマルチには録らず、北村さんがエフェクト、ミキシングしながら直接2トラックのテープに録っていった。無事終了。その後すぐにライヴ活動へ。直後のライヴはどっかの学園祭だった。

翌年1990年12月水リリース。レコ発はチョコレートシティ。その後は相変わらずのペースでライヴ活動。この頃の山人はリズムボックスの様なドラムを叩いていた。使うのはハイハットとスネアだけ。ハイハットがパカパカなっているところへマイクを近付けて置き、風圧でマイクをボフボフ云わせる。それをPAで調整するとモォフ、モォフと変なバスドラみたいな音が出た。山人はこのアイデアが大変お気に入りだったようでライヴにはいつもちゃんと来て機嫌良く演奏していた。僕とポコペンさんは早くも次のアルバムのための曲作りに励んでいた。山人のおかしなドラムを生かすために無機質で飄々とした曲を作ろうと云う事に。そんな感じである日のこと。チョコレートシティから電話。「今度さかなでワンマンライヴやってくんせぇ。」「ええ?でもお客さんがきてくれるかな?」「まぁがんばってチラシとか配ってみてくんせぇ。もし入らなくても罰金とかはねえっすから。じゃっよろしくっすぅ。」ってなわけで二人に報告。がんばんなきゃねって事で当日。6月。チョコレートシティで初ワンマン。「ちゃんとお客さんきてくれるかしらね?」三人で気を揉む。「まあ上手くいけば50人くらいはきてくれるんじゃない?チラシもがんばって配ったし。」「うー。緊張するよー。」この日用意した曲目は全部で21曲。果たしてこんなに演奏できるのか?このころのさかなは曲のサイズが短く、しかもたいていのライヴは5,6曲しか演奏しなかったので30分くらいだった。それがいきなり一時間半以上演奏しようというのだから。開場。楽屋から様子を伺う。ちらほらお客さんが入ってくる。「これなら50人くらいきてくれるかも。」「よかったー。」三人ちょっと安心。この日ははりきって始まる前のSEまで用意。マグネティックフィールズのアルバムが爆音でかかる。本番。ステージに上がってビックリ。目の前にたくさんのお客さんが。まさかこんなに来てくれるなんて。演奏スタート。山人ってのはげんきんなやつでなんだかやけに元気の良いドラムを叩いてご機嫌だ。いつもはタコみたいな変な動きで叩くくせに今日はやけにすかした叩きっぷり。三人で楽しく演奏。無事終了。「お疲れさまでした。」今日のライヴに来てくれたお客さんは161人。この記録はワンマンライヴとしてはこの後12年間更新されなかった。

(ここまでを前半としてページを分けていましたが、サイトリニューアルに伴い全編1ページに纏めました)

*

山人が機嫌のいいうちに早くアルバムを録音してしまおうってんで、チョコレートシティに電話。「なるべく早く次のアルバム作って欲しいんですけど。」「分かったす。じゃあ8月にやりましょう」1991年、8月。日野にあるスタジオ、エムズプロット。夏レコーディングスタート。この時ワールドランゲージというもういちまいのアルバムも録音し同時にリリースした。エンジニア、プロデュースはエマーソン北村さん。この時面白かったのはジャケット用の写真撮影。撮影ったってカメラマンを用意してもらえるはずもなく、友達から借りてきた小さなカメラで自力撮影。まずはスタジオの近所の野っぱらに行って三脚を立て、三人で記念撮影。その後スタジオに戻り個人の写真をとる。この時とって夏のジャケット表1に使われたポコペンさんの写真はその後しばらくの間、物議を醸した。もちろんいい意味でってな感じでレコーディング無事終了。そしてまた相変わらずのライヴ活動。しかしこの頃あきらかに山人は元気がない。「どうしたの?」「俺、、いつまでこんな事やってんのかな。」まただ。ようするに山人は新しい事を何か思いつき、それが新鮮なうちはがんばる。そしてそれをなんらかの形におさめてしまって次の思いつきを得るまでの間がこうなのだ。まあ誰だってある程度そうだろうけどこの人はそれが極端なのだ。でもそのころは僕もポコペンさんも同様に落ち込んでいた。なにか新しい思いつきも特になくて、山人にじゃあ次はこういうのやってみようよ。といえるものが無かった。なので山人はさかな以外のところで何か新しい事を探していたんだろう。一応ライヴには来ていたけれど、あきらかにやる気がなさそうだった。にもかかわらず、チョコレートシティから電話。「夏とワールドランゲージ11月に出すんでレコ発やってくんせぇ。あと続けて関西にツアーよろしく。」11月チョコレートシティ。夏、ワールドランゲージ、レコ発、ワンマン2デイズ。翌日から名古屋E.L.L、京都西部講堂、大阪ファンダンゴへ。この時の山人はもしかしたらツアーには来ないんじゃないか。と思うほど元気がなかった。でも来た。その後のライヴ予定をヨタヨタとこなしながら年を越す。で翌年1992年のあるライヴの前日。山人の彼女から電話が。「昨夜山人君、胃炎の発作を起こして倒れて入院しちゃったの。だから明日のライヴ行けないって。」「ええ。病院どこ?」びっくりして病院へ。「ごめんね。明日いけなくなっちゃって。」「いいんだよ。大丈夫?」「うん、でもものすごい暇だな。」「じゃあこれ。」差しいれに持っていったトゥーサンのムッシューをわたす。胃炎じゃ食べ物はまずいからね。翌日のライヴは二人で演奏。何日かしてまた山人の病院へ。少し元気そうだ。よかった。「やあ、どう?」「うん。明後日退院出来る事になったよ。」「良かったね。」「でさ、僕もうバンドやれそうもないなって思ってるんだ。」「で、これからどうするの?」「家に帰ったらゆっくり考えようかなとおもって。」「そう。残念だけど。でもまたいつか一緒に出来る時があったらいいなって思うよ。」「うん。」「じゃあね。」「うん、またね。」この後山人とは五年間会わなかったな。

*

その後のライヴを二人でやっていく。このころはだいぶライヴの誘いが減って来ていたので月二回くらいだった。これからの事についてポコペンさんとお話。「山人はもうもどってきそうにないねぇ。このままさかなとして続けていていいのかなぁ?」「私はさかなとして続けていきたいよ。またいつか山人くんもどってくるかもしれないじゃない?」「うん。そうだね。」この頃、家でよく聴いていたのはブライアンイーノやジョンハッセル、パスカルコムラード、ロバートワイアットなど。自分にこんな高度な音楽が作れるとは思っていなかったけど、ひとりで密室作業で音楽を作る事に興味をもっていた。ある日友達からシーケンスソフトやサンプラーというものがある事を教えてもらう。うー。なんかすごそう。ほしいなぁ。しかしこのころのこうした機材は今の物と比べたら機能的にはハナクソだけど値段は今よりはるかに高価だったとおもう。買えるわけない。あきらめる。その時僕が持っていた機材?はエレキギター一本とラジカセ一個とクラシックギター。友達からラジカセを一個借りて来た。まず単純なシーケンスパターンを考えてギターを弾いて、ラジカセに録音。それを流しながら重ねるギターフレーズをもう一個のラジカセで録音。こうやっていけばいくつでもオーバーダビングできる。でも五個目くらいになるとザーっというノイズの方が大きくなってしまう。これが面白くて次々に曲を作っては録音。20曲くらい作って10曲ボツにするけど10曲出来た。どうしようかな。山人がいなくなった落ち込みから逃れたいのと山人ぬきのさかなでアルバムを作る気になれなかったのとで、これらの曲をソロアルバムとして作る事を計画。もちろん歌はポコペンさんに頼むつもり。テープをもってポコペンさんに会いに行く。テープを聴いてもらいながらやりたい事を説明。彼女は快く承諾してくれた。で、チョコレートシティに電話。「僕のソロアルバム作って欲しいんですけど。」「あー?まじっすか?」「ええ」「まあいいっすよ。北村さんと相談してまた連絡するんで」ってなわけだったんだけど、それから数日経ったころ、チョコレートシティと僕たちとの間でちょっとした誤解が起こり結局その後チョコレートシティとの関わりはなくなってしまった。

*

さて、どうしよう。以前ライヴに誘ってくれた事があるSSEの北村昌士さんに電話してみる。「さかなというバンド(?)をやっている西脇といいますが、僕のソロアルバム作って欲しいんですけど。」「いいよ。いつ?」「なるべく早く。」で、ソロアルバムのレコーディングに入る。場所は梅が丘のクレーンスタジオ。1992年、3月、森、レコーディングまずはボーカル以外のパートを録る為にひとりでスタジオへ。クラシックギター、ガラクタの自作楽器、オカリナ、そしてチェロ。(ったって笑っちゃうようなもん。)などを持って大荷物。ちょこまか音を重ねていく。この時のエンジニアのにいちゃんはえらく無愛想で態度が悪い。僕はレコーディングでいつもやたらとやり直す。まぁへたくそだからなのだが、気に入らない演奏になるのはやだからね。ってなわけでギター録りながら「すいません。もう一回。」「はあ」「すいません。もう一回。」「ったく。」「すいませんもう一回。」「ったく、早くしろよ。「すいません。もう一回。」「、、、。」「すいません。もーいっかい」「、、。」ってな感じでそのうちなにもいわなくなる。でも気にしない。こっちはそれどころじゃないんだよ?でもってポコペンさんが来て歌入れ。無事?終了。電車で居眠りをしたら降りる駅を乗り過ごしたようなしょうもないアルバムだった。

しかしながら出す以上はレコ発。吉祥寺マンダラ2。1992年、夏だった。この日のためにバンドを作った。ドラムは鈴木くん。ヴァイオリン勝井さん、当時割礼でギターを弾いていた山際秀樹さん。ポコペンさんはベースを弾きながら歌った。みんな素晴らしい演奏をしていたけれどこのバンドはその後2回くらいライヴをやって終わってしまった。その間もさかなとしてふたりでライヴはやっていた。

ある日ポコペンさんの家に遊びに。「やあ。」「私新しい曲作ったんだけど。」「うん。」三曲くらいテープを聴かしてもらう。たのもしい王子やモナリザなど。ものすごいいい曲。「すごいじゃん。本当に。」「へへへ、そお?私もさ、ソロアルバムつくってみようかな?」「いいじゃん、是非やりなよ。」「そしたらギター手伝ってくれる?」「もちろん。それに北村昌士さんに頼めばきっと喜んで作ってくれるとおもうよ。」「うん。」その後彼女は一生懸命がんばって他の曲の準備を進めた。

1992年、12月。ボンジュールムッシュサムディ。レコーディング開始。僕は五曲くらいへなちょこなギターを弾いただけであとはずっと見学していた。たのもしい王子にポコペンさんがベースを重ねている。ものすごいベース。ゴーバンズで始めて彼女のギターを聴いた時と同じショックを受ける。彼女の歌のメロディはとても力強くて美しいけれど、楽器で奏でるものはまた違っている。なんか不思議なタイミングで音が入る。これについて僕はずっと後になってから彼女に聞いたことがある。「なんで?」「そりゃ普通入れなさそうなところに音を入れるようにしてるからね。」そうなのか。やっぱ考えてるんだ。でも考えてああなっているというのはなおさら変な気もする。「別に変にすりゃいいってもんじゃないのよ?それにアクセントをつけるのが重要なんだから。なんていうのかなあ、ふふふ、まあ西脇くんはまだまだこのへんのことはわかってないからね。」「、、、。」そうなんだ。僕はいまだに分かってない。「あのベース考える時だれか参考にした人とかいるの?」「ラリーグラハム。」そういえばあのころよくスライの暴動を聴いていたな。うーん。たしかになんとなく彼女の意図がわかったような気がする。でも暴動に入っているへんてこなベースのほうは実はスライが弾いている。でも当時は二人とも知らなかった。そして彼女のベースはやっぱりだれにも似ていない。彼女は本当に頑張っていた。それを見ていてとても刺激をうけたし励みになったな。そうか。自分が本当に作りたいと思ったものを守るためにはこんくらい頑張んなきゃいけないんだ。無事終了。「私、こんなに頑張ったの生まれてはじめてかも。」と云っていた。

1993年、4月、ボンジュールムッシュサムディ、リリース。レコ発はマンダラ2にて。このレコ発をするために彼女と話し合った。「バンドでやるの?」「うん。」「だれにする?」「ドラムは鈴木くん。あと服部さんになんかたのめないかな?ベースもほしいけどいるかなあ。」「うーん、いないねえ。北村昌士さんに聞いてみようよ。」「うん。」服部さんは時々さかなをライヴに誘ってくれたイカノフユをやっていたひと。ギターがとても上手い人だけれど、他にもバンジョーやスチールギターなどが出来る。なのでスチールギターとバンジョーをお願いした。そして北村昌士さんに「誰かベース弾いてくれる人いないかしら。」「ディップザフラッグやってた伊藤ならやるんじゃない?」と云うわけで頼む事に。そういえば伊藤君に頼む事になって鈴木くんはすごく喜んでいたな。でレコ発。なにしろ曲と歌がいいのでお客さんもとても喜んでいた。その後この時のメンバーで新しいバンドを結成しようと云う事になった。

そのころとある公募展で賞金が貰える事に。べつに自慢しているわけではない。やった!これでサンプラーが買えるじゃん。で、サンプラーとマックとシーケンスソフトとマイクと4トラックのカセットMTRを購入。なんかいきなりすごいのが家にやってきたな。使い方を覚えるのに数週間かかったけどなにしろ面白い。サンプラー用の既成の音源を使うのはつまらないのでやめる。レコードからひろうのはセンスがないのであきらめる。身の周りのものを叩いたりこすったりしてそれをサンプリング。シーケンスはすべてステップで打ち込んで行く。ヴェロシティも全て数字で打ち込む。なんでリアルタイムで打ち込まなかったのか?こんなすごいもの手に入れたのに手弾きなんかしたら意味ないじゃん?アホだ。それじゃ平べったくなっちゃうでしょ?タメたいときはサンプラーの発音するタイミングを遅らせる。つっこみたい場合は基本となるシーケンスを遅らせてからジャストで発音。でもこうすると音程の低い音ほど遅れてしまうので、うー、なんか気持ち悪い。こんなドシロウト感満載の打ち込み作業にこの後1年近く夢中になった。でも案外早くセンスが無い事に気がつき機材は全て売り払ってしまった。そんな風にして作った曲を20曲以上もおさめた小さな家というアルバムをどっかからリリースした気がするが、あまり思い出したくもない。ちなみに小さな家はル.コルビジェの本に感銘を受けたタイトル。この本はとっても素敵な本。

新しいバンドはカメラ。別に意味はない。その時たまたま読んでいたトゥーサンの本のタイトル。たいして面白くもない小説。カメラはSSEでアルバム、ハードなハッカを作った。でもこのバンドを続けることはできなかった。皆、素晴らしいミュージシャンで素敵な人たちだった。たぶん曲が悪かったんだろう。でもそれだけなら新しい曲を作って頑張ればいいんだけど、それだけじゃなかったな。たぶん、、彼等はその時の僕にとって大人っぽすぎたのだ。酒好きの彼等はとても気さくで明るく、楽しく、でも良識をわきまえ、音楽を愛していた。会えばいつも飲み会になっていた気がする。音楽という共通言語をしっかり身に付けていた彼等とだと、新しい曲を作っていっても何度か合わせているうちにそれなりに形になった。でも僕は彼等と上手く話す事も上手く演奏する事も出来なくて、どうしても打ち解ける事が出来なかった。だからアルバムを作って何度かライヴをやってカメラを終わらせてしまった。ある飲み会での伊藤くんとの会話。「俺さぁ、これからは気のいい酔っ払いになる事にしたんだぁー。」「じゃあいままでなんだったの?」「ただの酔っ払い。」「そう。」「家でさぁ、今度のライヴでどんなベース弾こうかなぁってこぉ、考えててさ、すんげぇカッコイイフレーズ思い付いてさぁ、で、それ練習していって、本番になってさぁ、で、その曲がきて、そこんとこが近づいてきてさぁ、くるぞ、くるぞ、うーっ、やったぁ、出来た!って感じでさぁ、でもって、後で家に帰ってテープ聴いててさぁ、そこんとこ聴くと、もぉー、くぅっ、こいつ!武者震いがするぜ!!って感じなんだよね。」「よかったね。」「そお。もぉ良かったのよ、いやーほんと、俺って最高。いや俺も最高だけどさぁ、カメラも最高。いやぁー、良かった。よかったぁー!!。」「ふーん。」繊細で優しい伊藤くん。それは彼のベースを聴けばわかると思う。僕は、カメラは解散したい。と彼等に告げずになんとなく終わらせようとしてしまった。とても無責任だと思ったけど、理由があまりに身勝手で説明する勇気がでなかった。もしかしたら僕がただ辞めればカメラは続いたのかもしれない。いまとなってはどうしようもないけれど。しかしその前後のライヴはさかなとカメラの名で変則的にやっていた。そのとき、そのときで鈴木くんや服部さんが参加してくれていた。ある日、ポコペンさんとお話。「僕さ、もうカメラやりたくないんだけど。」「なんで?」「うー。なんでかな。」「山人くんとさかながやりたいんでしょ?」「うー。そうなのかな?」「そうだよ、きっと。私もそうだもん。」僕は彼女のこの言葉を聞いてちょっとビックリした。彼女は僕ほど山人と一緒にやる事にこだわってはいないと思っていたのだ。でもそうじゃなかった。彼女もとても残念に思っていたのだ。「でも山人は戻ってこないよね。どうしよう?」「ふたりでさかなをやっていこうよ。で、曲がたまったらアルバム作りたいな。」「うん、そうしよう。」

と云うわけでこの後は二人でゆっくり曲作りをしながら月一回ペースでライヴ活動。このころはライヴにあまりお客さんが来てくれなくなっていたな。「最近、私達人気ないね。」「うん。」「なんでかなぁ。どうしたらいいのかな。まあ音楽は頑張るって事で、もっと他にお客さんに楽しんでもらえる様にしたいわね。やっぱ着るものもちょっと気をつかうようにしなきゃね。西脇くんもさ、皮パンでも買ってさ。」「えー。でも似合わないよ。」「いいのよ!別に似合ってなくたって。そんな細かい事だれも気にしてないんだから。そのうちこなれるわよ。」「でも、だれも気にしないんだったら気にしてもしょうがない気がするんだけど、、。」この後彼女はライヴで着る物に気をつかい始め、ステージでたくさんしゃべるように努めるようになった。もともと、口べたなのでメンバー紹介もおぼつかないような彼女はがんばってそれを乗り越え?後にはお客さんから「今日のMC良かったです。」などと云われる様になり、さらに後には鈴木くんがPOCOPEN語録を綴る程にまでクオリティアップする。でも僕にとってはほとんど毎日がPOCOPEN語録なのでそれほど新鮮味はない。

二人で曲を作るときも歌のメロディーが力強く印象的になる様に考えるようになった。そんなある日、ポコペンさんが作って聴かしてくれたのはファン。とてもポップなよい曲。さかなでアルバムを作るための準備を進める。こんどは打ち込みでリズムトラックを作り、それに合わせてギターやベースを入れてやってみようと云う事に。とは云ってもリズムボックスに毛が生えたようなもん。しかしながら打ち込みを利用する作り方は始めての試みだったのでずいぶんゆっくりと曲を作っていたな。キーボードをエマーソン北村さんにお願いする事にした。でもって準備もだいたい整ったある日。なんとなくギターを弾きながら曲を作っていたら一日に5曲も出来てしまう。いい感じになりそう。ロッキンチェアやミュージック、などが含まれていた。どうしようかな?テープを持ってポコペンさんに会いにいく。「やあ。今日いっぱい曲が出来たから聴いてほしいんだ。」「どうかな?」「いいんじゃない。」「君もなんか新しい曲ある?」「うん。三曲くらい。」聴かしてもらったのはレイディブルーやサンセットデイビーズホーム。とてもいい曲だ。「あと二曲くらいがんばって作ってみない?そしたらさもう一枚アルバム作ろうよ。こっちのはうんとシンプルにギターと歌だけでさ。」「うん。いいね。」ってなわけで、SSEに電話。「新しいさかなのアルバムを作ってほしいんですけど。で2枚なんですけど。でも一枚はシンプルなんでミックスまで含めて三日、もう一枚の方は五日で作ります。どうでしょうか?」「いいよ。」1994年、夏〜秋。ポートレイト、光線レコーディング。予定通り終了。しかしミックスが気に入らずもう一回やりなおしてほしいとゴネるがいろいろとめんどくさそうなのであきらめてしまった。いかんな。1994年12月にリリースした。レコ発は下北沢シェルター。ふたりで地味にファン、レイディブルー、ロッキンチェア、ブルージーンスー。カバーでアメイジンググレイスなどを演奏した。

その後も地味にライヴ活動。このころはたまに服部さんがベースで参加してくれていた。(彼はベースも弾ける。)その頃僕は横浜の小さなデザイン事務所に社員として勤めていた。(雑用ばっかだったけど)ポコペンさんは新宿の文房具を扱う会社で事務のバイトをしていた。ふたりとも地味に黙々働いていたな。そんな風にしていた1995年6月ごろ。このころからいろんな事が起こる。まず僕は勤めていた会社をクビになってしまう。儲からないので人減らしだ。その数週間後、七年間住み続け、絵を描き続けて汚し放題にしていた部屋を大家さんに見つかってしまい来月中に出て行ってください。と云われてしまう。なんとか引っ越しをしてビル清掃のバイトに就いた。そして絵ばかり描いていた。なぜだかその時三つも個展を開く事が決まっていたので。ちょうどそのころポコペンさんも新宿の会社を事情があって辞めていた。彼女も間もなく新しい仕事に就いたけれど。ライヴは時々やっていた。そんなふうにして年が明けて1996年。そのころ僕もポコペンさんも深刻な問題を抱えていた。彼女は「もう私、音楽続けていけないかも。」と云っていた。この問題は人に云える事ではないので書きません。毎日とても落ち込んでいた。考えてみると僕らは落ち込んでばかりいるな。

ある日家に帰って留守電をきく。北海道に旅行中の母からだった。父が死んだという知らせ。一人で家に居た父は近所に買い物に出かけて道ばたで倒れて死んでいたそうだ。近所の人が見つけて警察に通報。病院に運ばれた。とにかく病院へ。行ってみるとすでに弟が来ていた。死因の説明をきくために病院の人と話す。心不全。その後数日間はなにも考えなくてすむほど忙しかった。父の葬式の日は夜、さかなのライヴ。渋谷オンエアでPhewさんの前座だった。一緒に服部さんがベースとリズムボックスで参加してくれた。演奏は、、いいわけない。少し落ち着くと色々考える。ポコペンさんと同じく僕も音楽を続けて行けない気がしてくる。なにしろ母が心配なのでちょくちょく様子を見に行く。このまま一人にしといていいのか?弟は結婚して地方にすんでいるがこのときはずっと母の所に滞在してくれていた。仕事の事も含めこれからどうしていくかさんざん悩む。しかしアホなので答えが出ない。ただこのままさかなをやめてしまうのはどうしても嫌だった。で、ポコペンさんに会いにいく。「あのさ、僕もこれからどうしたらいいのか分からなくなってるんだけど、でもこのままさかなやめちゃうのは嫌でさ。だからもしかしたら最後のアルバムになってしまうかもしれないけどもういっかいアルバムを作りたいんだ。君もたいへんかもしれないけどやってくれないかな。」「うん。わかったよ。」ってなわけで一週間くらいでアルバム分の曲を用意する。以前作ったリトルスワローとハッピーチューズデイも入れる事にした。僕はこのアルバムで密かに計画している事があった。もしかしたら最後になってしまうかもしれないのでだったらもう一度一緒に音楽をやってみたかったひとを集めてみんなと知り合えてよかったなと云う気持ちでやりたかった。恥ずかしいのでそんな事いわなかったけど。やっぱ落ち込んでいたので感傷的だったんだな。そして音楽があって良かったなという気持ちで。だからタイトルはマイディア。同じタイトルの曲が入っていてもちろんポコペンさんが歌詞を書いたんだけどこのタイトルだけは決まっていてポコペンさんにどれかの曲でこのタイトルを使って欲しいと頼んだ。

で、まず勝井さんに電話。「もしもしさかなの西脇です。アルバム作ってもらえませんか。」「ああ。CD?」そう、勝井さんのやっているまぼろしの世界と云うレーベルはカセットレーベルとしてスタートしたものだった。でもCDも時々作ってた。「はぁ。」「うん、まぁ、いいけど?」「で、勝井さんにヴァイオリンとプロデュースをお願いしたいんです。」「いいよ」僕はこの時、最後のアルバムになるかも知れないと思っていた事を言い出せませんでした。ごめんなさい。その後スタジオ代をどうやって清算するか、リリース後どうやって売っていくかなどを相談して交渉成立。勝井さんはこのとき決めた約束を本当にきちんと守ってくれた。僕が色々勝手な申し出をしたにもかかわらず。本当に感謝しています。ありがとう。勝井さん。で、山人に五年ぶりに電話。「やあ。元気?」「うん。」「こんど新しいアルバムを作ろうと思ってるんだけどドラムやってくんない?」「どんな感じなの?」叩いてほしいドラムをなるべく具体的に長々説明する。「うん。じゃあ練習とか無しで、一日だけならスタジオいくよ。」「いいよ。じゃあね。」その後本間の居場所を探しあてて電話、やってもいいよとの事だった。1996年4月マイディア、レコーディングスタート。阿佐谷アーススタジオ。勝井さんがとってくれたスタジオに僕と山人。もちろん勝井さんも。「やあ。ひさしぶり。」「うん。」ってんでセッション開始。山人と二人でとにかく片っ端から演奏。何テイクもテープを回しっぱなしで録っていく。一晩で8曲録った。お疲れさま。帰り際、山人にさりげなく聞いてみる。「もう音楽やんないの?」「うん。やんない。」看護士になろうと思って病院で働いてると云っていたな。それっきり今まで会っていない。何処に住んでるのか、何をしているのかも知らない。でもこの時ようやく山人に対する未練というか、わだかまりをさっぱり捨てる事ができた。ポコペンさんもそうだったと思う。ポコペンさんと僕が、山人から受けた音楽的影響はとても大きいとおもう。ありがとう。

このアルバムで僕にはもう一つの計画があった。いままでのようにあらかじめ出来上がりを想定して準備してから録音するのではなく、いきあたりばったりに思い付いた事を録音していって最後どうなるのかわかんないけど、作りながら曲を発見していこうというもの。というわけでまずは山人と録音した物を聴きながらテイクを選ぶ。それにギターやベースを入れたり本間にキーボードを入れてもらったり。サックスが入れたくなったので勝井さんに相談。「じゃあ泉くんってのがいるから。」ってんでいれてもらう。勝井さんにストリングスとサックスのアレンジも頼む。ハッピーチューズデイやチョコレートのアレンジはとても素敵だ。それからレコーディング二日目に勝井さんは益子さんをつれてくる。「彼にエンジニアを頼もうと思うんだ。とてもすばらしいんだよ。」益子さんは長い事わけのわからない試行錯誤を繰り返す僕に辛抱強くつき合ってくれた。最初の日にセッションを録ってくれたのはスタジオのオーナーのコセさん。そしてそれなりに演奏が録れてきたころテープをもってポコペンさんに会いに行く。色々と曲の説明をしながらボーカルラインの打ち合わせ。彼女は一生懸命素晴らしいフレーズをいくつも考えてくれた。歌詞にもへんてこな工夫をこらしてくれた。歌入れも無事終了してミックスへ。益子さんとミックス。益子さんは無計画に録り散らかされてほとんど24トラック埋まっているそれぞれのパートを注意深く丁寧に吟味してこの曲には何が必要で何がいらないかを考える。シンプルに整理したトラックに効果的なエフェクト処理をしながらリアルタイムでフェーダーを操作してものすごいミックスをした。素晴らしい。本当に。僕はそれまで曲をアレンジしてしまうようなミックスを知らなかった。もし前のようにあらかじめ出来上がりを想定して録音していたらこうはならなかったかも。いきあたりばったりなやり方の計画を説明された勝井さんが益子さんに頼んでくれた、そのプロデュースも素晴らしいと思った。ってなわけで半年近くかかってようやく完成。

レコ発しなきゃね。「どうする?」と勝井さん。「その日だけのバンドを作ってやりたい。ドラムは鈴木くんに。もちろん勝井さんヴァイオリン弾いてください。」色々話し合ってエマーソン北村さんにキーボードを頼む。二曲だけポコペンさんと二人で最初に演奏する事にした。リリース、レコ発は1996年12月。マンダラ2。その後、ポコペンさんと僕はそれぞれの問題をなんとかやりくりしたりおさめたりしながら、さかなを一緒に続けていこうと何度も話し合った。そしてあるときは二人、あるときは鈴木くんと三人、あるときは勝井さんと三人、またあるときは勝井さんと鈴木くんと四人でと云った感じで1年ぐらいの間、変則的にライヴ活動をしていく。そしてさかなは四人になっていった。

*

この頃から関わる人が少し増え始めて、リトルスワローをつくったり、N.Yにいったり、ウェルカムをつくったりしていく。でもそのへんのことは知っている人も多いと思うし、記憶が近すぎて心を開いて素直に回想出来ないかもしれないので詳しくは書きません。でもちょっとだけ。このころ関わりを持ちお世話になった人たちのおかげで、さかなにはそれまで縁が無いと思っていたような人たちとライヴが出来るようになったり、
CDがそれまでより多くの人たちに届くようになったりしました。そしてライヴやレコーディングで多くのアドバイスをもらいながら活動し、ポコペンさんの歌はよりたくさんの人たちに聴かれ、愛されるようになった。彼女自身の歌いたい事、表現したい事がより明確になり、いっそう力強い歌を歌うようになったのもこのころからかもしれません。そして辛抱強く、時に軽く受け流しながらずっとつき合ってくれているドラムの鈴木くん。本当に感謝しています。現在、さかなの結成時の事を知っているメンバーは僕しかいないので、Biographyは僕が書く事にしました。二十年間の事を僕の視点で思い出しながら書いたのでどうしたって僕物語になってしまう。ポコペンさんのエピソードが少なくて読んだ人はつまらなかったかもしれませんね。でも僕にとって彼女はずっと長い事一緒に音楽を作ってくれている親友なので思い出として語る気になれない。こんなヘナチョコな事を云うと彼女はこう云う。「友達じゃなくて師匠でしょ?」

このBiographyはここで終了していたのですけれど、2004年8月30日マンダラ-2での「Locomotion」のレコ発ライヴを最後に鈴木君が辞めた事を付け加えておきます。長い間どうもありがとう。鈴木君。

*

index