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7/1(sun,) 2018

昔読んだある本の主人公にこんな台詞があった。「二者択一を迫られて悩むんなら、どっちも捨てればいいじゃん?」実は二十代の頃の自分にとってこの言葉は結構説得力があった。でも年を重ねるごとに、随分子供っぽい言葉だけど、一体どこに自分は感心したのだろう?と思うようになった。歳を取っても独りで立っていられる自信があれば、ずっと共感出来るのだろうか?いや、違うと思う。年を取ると「選択権」が自分にはない事に気付くのだ。

今日また曲が出来た。相変わらずつまらない曲なので使いものにはならないな。

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7/2(mon,) 2018

今年は夏の始まりが早いので、ホントはもう少し先に書こうと思っていたのだけど。今年も夏が来て、時々山口冨士夫さんの事を考えている(命日は8月14日)。毎年こうやって亡くなった音楽家に想いを馳せるなんて、僕は若い頃から山口さんが亡くなるまでは、ずっと縁がなかった。好きな音楽家が亡くなった時はもちろんショックだったけれど、でも毎年同じ時期に思い出すことはなかったと思う。

と云うわけで、暑くなると自然に山口さんの演奏を繰り返し聴いている。昨年はティアドロップスの「瞬間移動出来たら」の歌詞を取り上げたと思う。僕らが若い頃、今とは違って、ロックってのはどうしようもなく洋楽お手本音楽で、僕はそう云うのがカッコ悪いなあと思っていた。皆んなアメリカやイギリスのバンドみたいな事しようとしてあまりうまく行ってないみたいな感じがした。一応日本語で歌っていても、どうやったら英語っぽくメロディに乗せられるか?みたいなところで頑張っていて、歌詞の内容は意味がよく分からなかった。村八分も楽器の演奏は粗野なローリングストーンズみたいなんだけど、とにかく「日本語の歌」だった。そしてうまく云えないのだけど、歌われているのはどこをどう聴いても、日本の景色(心象)だった。だからとても惹かれたのだと思う。たとえば「草臥れて」の歌詞。20歳そこそこの若者がこんな歌詞を書くなんて、日本人以外じゃ考えられないと思うんだよね。以下は晩年の山口さんが1人で弾き語りしている動画。僕にとっては決定的な名曲の名演。(歌詞をドラッグ体験に結びつけて解釈したり、コード進行がDon’t Let Me Downを元にしていると分析したり、そんなつまらない聴き方しかしないのってどうかと思うけどね)

「草臥れて」

歩いても 歩いても
果て度なく 果て度なく
握りしめた掌は
汗ばかり 汗ばかり

歩いては 立ち止まり
目を閉じて 振り返る
心の中に仕舞った
たからものは
寂しさばかりさ

https://www.youtube.com/watch?v=AVcc5QyjnWE

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7/3(tue,) 2018

今日も締め切りに追われて部屋で絵を描いている。いや、締め切りはとうに過ぎているので、少しでも早く完成させなければいけない。でも今描いているのは最も時間のかかる風景画なのでまだ一週間以上かかると思う。そんな毎日だけど、実はバイト探しもしている。云うまでもないけど金がないので。しかしこの歳になると3日だの1日だのと云う短期ならいくらでも仕事はあるけど、3ヶ月以上の長期になると途端に選択肢が少ない。何かしら資格や経験が求められる職種になるので自分の場合は募集外になってしまう。長期なら鉄道の車両清掃が有力なんだけど、体力仕事に自信が持てないので、短期の単純作業を立て続けに行く方がよいのかとも思う。なんの取り柄もなく歳だけとってしまえば、クソみたいなダメ人間だ。若い頃に戻ってやり直せたらなあとは思うけど、まあ仕方がない。

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7/4(wed,) 2018

なぜ同じ事に留まって失敗を繰り返すのだろう?行き場のない思いを繰り返すだけだと知っているのに。勿論それは自分の弱さ故と分かっているし、そこから逃れる術も知らない訳ではないはず。早くその場から「立ち去れば」いいだけなんだよな。バランスを欠いた物事に未来は感じられない。sakanaを続けてきた事だってそんなアンバランスの一つかも知れないな。

少し前に寂しさは身体を軽くすると書いた。寂しいと食欲が減るので文字通りの単純な意味合いだった。寂しさは心も軽くすると思う。執着が心を重くするのだから、これもまた単純な意味合いだけれど。

幼くて、まだ一人で出歩ける範囲が町内1周くらいだった頃、隣町まで初めて足を伸ばし、見知らぬ住宅街に紛れ込んで、廃屋のような掘っ建て小屋の側に紐で繋がれた山羊を見た。真っ白なその身体と驚いたように身動き一つしないのに、湖のように静かなその眼差しに囚われてひどく不安になった覚えがある。僕はその場を一目散に立ち去った。見慣れた町内へ戻って安堵した後に感じたあの云いようのない寂しさが「立ち去った」後に残る心情にきっと一番近い。2度と会えないあの山羊。隣町もその隣も自由に行き来出来るようになった後、何度もあの廃屋の前を通ったけれど、あの山羊を見かけた事はなく、もう会えない事を僕はあの日、立ち去った瞬間から知っていた。僕は今もまだあの瞬間から立ち去れずにいるのかも知れない。

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7/5(thu,) 2018

陰気な愚痴ばかり書いているこの日記だけど、今日はとても些細で具体的な愚痴。ウチは駅まで歩いて約15分。普段は何も考えずに歩いているけれど、その道程は急な坂道を登り降りして一山越えなければならないので、荷物が多くて雨が降っている時などはバスに乗りたい。バス停はウチのすぐ近くにある。しかしこのバスが何の役にも立たない。時刻表は勿論持っていて、1時間に3~4本の運行があるのだが、時間通りに来る事はまずない。10~15分は当たり前に遅れるし、かと思えば時間より早く来てしまう事もある。時間通りにバス停に行って待っていたって、果たしてこれから来るのか?もう行ってしまったのだろうか?と悩みながら待っているくらいなら歩いてしまおうって事になる。そして歩き始めるとバスに追い抜かれるのだ。どうしようもない。

仕事に使う資料などが郵送されて来る事が度々ある。留守で受け取れない事もよくあるので、再配達を頼む電話をする。出来ればオペレーター対応で頼みたいけど、まあそう思う人が多いのだろう。一向に繋がらず、自動受付けに勝手に電話が回されてしまう。仕方がないのは分かる、オペレーターを雇うより機械に繋いで応答した方が遥かに経済的。でも機械の受付けはまどろっこしくて面倒くさい。たとえば当日の再配達は受付けが16時までとなっているけど、時間ギリギリの場合なんか、オペレーターだとなんとか対応してくれたりするけど、機械は入力しているうちに時間になってしまい翌日以降になってしまう。オペレーターをたくさん雇ってほしいと云っているんじゃなくて、機械の応答をもっと効率良く出来るんじゃないの?って話し。

まあでもホントにどうでもいい事なんだけどね。

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